☆コメントのやりかた☆

☆☆☆☆☆☆☆ドキドキ((〃゚艸゚))ドキドキ☆コメントのやり方☆☆☆☆☆☆
✽しばらくの間、モバイル版の表示もPC verに変更致します。
『コメントのやり方が分からないっ!!!』って方が多かったので
方法を載せるコトにしましたヽ(・∀・)ノ
今現在把握しているやり方は2通りです。

①Androidスマホの方はgoogle ID もってますよね?なので『コメント記入者』から『google ID』を選んでもらえれば、名前もIDのものが反映されるようなのでやってみて下さいっ!!!
②Androidでもスマホでもナイ方は、『コメントの記入者』のスクロールで『匿名』を選んで下さい。でも、匿名だと誰がコメントしてくれたのか分からないので、コメント欄に名前を入れて欲しいですっm(_ _)m
『指定された認証コード』の入力があるので、ソレをそのまま入力して下さいっ!!!
✽他にも方法があれば調べてまたUPしますっっ!!!!
面倒かもしれませんが、コメントお待ちしておりますヽ(*´∀`)ノ
☆☆☆☆☆☆(●´ω`●)ゞ(๑´ڡ`๑)テヘペロッ!!!☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

10.01.2013

The Berlin Wall

今日はお勉強です。とは言っても引用ですが。

『Berlin Wall-ベルリンの壁』とは・・・

まずはベルリンの位置関係。地図のようにドイツの中のかなり東寄りにあります。統一前にドイツが東西に分かれていた時は、ベルリンは東ドイツ(ドイツ民主共和国)の真っ只中にありました。西ベルリンは”敵陣営”のど真ん中に浮かぶ陸の孤島のようなものだったそうです。


第2次世界大戦でドイツと戦ったアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4ヵ国はドイツを分割して占領。首都だったベルリンも4ヵ国の間で分割、占領されました。


ソ連がベルリンの東側半分を取り、英・仏・米は西側半分をほぼ3等分して占領。しかし、この分割占領が悲劇の始まりとなる。その後、英・仏・米とソ連の対立が決定的になるにつれ、その影響は分割占領されていたベルリンにもハッキリと及び、西ベルリンと東ベルリンの体制の差や分断状態もハッキリしてきました。特にソ連が占領していた東ベルリンでは社会主義な統治が敷かれ、生産ノルマ引き上げなど労働者への締め付けが厳しくなっていった。これを嫌って東から西側に移り住んだり、東側に住みながらも稼ぎの良い西ベルリンへ通勤する人が50年代を通じて増えました。これは当然、東ベルリン側(東ドイツ・ソ連)にとっては許せない事態。戦後復興に欠かせない労働力が西側に流出してしまっては計画経済が成り立たない。東独はこの人口の移動を「西側による人身売買」と非難し、防止に躍起となったが東西間の生活水準の差は明らかだった。

そこで東側がとった策が『壁』の建設だったのだ。西ベルリンを壁で強制的に囲ってしまい、交通を物理的に遮断することで労働者を西側に逃がさないようにしたのです。これが1961年8月13日未明のこと。しかし壁の建設と言っても最初から立派な壁を作れた訳ではなく、当初はとりあえず鉄条網に代わってコンクリートブロックを積み上げた壁や、コンクリートの板を使った塀のような壁が作られたそうです。したがって壁とは、「西ベルリンと東ベルリンの間の境界線上(約60km)にあって、東西ベルリンを互いに隔てるもの」ではなく、「西ベルリン全体を東独の中で封鎖し孤立化させたもの」なのです。だから壁は西ベルリンの周囲(約165km)にあったのです。

時間が経つにつれ壁は改良され頑丈になっていきましたが、「間仕切り」だけが作られたわけではなく、警備をしやすくするため壁の裏を数メートルから数十メートルの幅にわたり無人地帯にしたり、越境する者がいないか見張るための監視塔を建て警報装置を設置するなど様々な付帯設備も作られた。亡命を阻止するためにあらゆる工夫を凝らしたのだ。そして徐々にしっかりした封鎖体制が築かれた。壁を見張っていたのは国境警備隊という軍隊組織だった。



つまり『壁』は単に障害物としての存在ではなく、西ベルリンを周囲から完全に切り離し東側からは絶対に越えさせないようにするための「道具」となり、そうすることで東独の市民にとって西ベルリンは存在しない街・存在してはならない街となったのです。事実、東独が発行したベルリンの地図の中には西ベルリン部分は空白になっていて、道路も鉄道も記されていないものがあったようです。



では何故『壁』は崩壊したのか・・・・

東ドイツは「社会主義統一党」という名の政党により支配された独裁国家でした。この党は事実上、共産党と同じでした。国民には政治的自由や言論の自由がなく、特に「国家保安省」と呼ばれた秘密警察による監視が厳しかった。一般市民の中に沢山の協力者もおり密告も多かった。しかもこの密告者は協力者であることは秘密にされていたので、家族の中にも知らないうちにいたということもあったそうです。なので夫婦や親子であっても政府を批判するような会話は一切できず、家族であっても腹を割って話し合うこともできない状況で、国民は常に行動を見張られていると言っても過言ではなかったそうです。こんな体制の中、1980年代を通じて東ドイツでは国民の間に政治に対する不満が高まっていった。

この頃、東ドイツと同じ社会主義国だったハンガリーでも国民の不満が高まり、ハンガリー政府は自由化へと動き出した。1989年5月にはオーストリアとの国境にあった鉄条網の撤去を始め、越境するにはパスポートやビザなどが必要とされ境界線付近は警備兵が監視していましたが、鉄条網撤去は自由化の象徴と見られた。これに目を付けたのが西ドイツへの出国(亡命)を目指す東ドイツ人でした。ハンガリーからオーストリアへ越境することを狙い、この年の夏には数万人とも言われる東独人が「休暇・旅行」の名目でハンガリーに滞在。そして不法ながら国境を突破してオーストリアに入った人が2~300人もいたそうです。

1989年・夏、ハンガリーの反政府団体が集会を開きます。集会が開かれたのは西部の観光名所「ショプロン」というオーストリアへの国境付近の町。この集会には東ドイツ人も多数参加し、「凡ヨーロッパ・ピクニック」というイベントを計画。これはハンガリーから国境を越えてオーストリアに入り込むことで東西ヨーロッパを自由に通行できることをアピールしようという内容でした。そして実際にこの「ピクニック」は実施され、国境地帯まで歩き、鉄条網は撤去されていたものの閉鎖されていた国境の柵を開けてオーストリア側に越境しました。ハンガリーにも国境警備隊がいて監視体制を敷いていましたが不思議なことに越境を見逃しました。「ピクニック」に参加していた東ドイツ人はそのままオーストリアへなだれ込み、この日(8月19日の土曜日)だけで東ドイツの900人が越境したと伝えられています。オーストリアは西側自由主義国だったので、オーストリアに入った東ドイツ市民は簡単に西ドイツへ行くことができました。



この話が伝わると、出国を希望する東ドイツ人がハンガリーに殺到。ハンガリー政府は越境について「不法行為」と一応の非難はしましたが、越境者を逮捕したり射殺したりといった措置はとらず黙認を続けた。東ドイツ市民はベルリンの壁や東西ドイツ国境を命の危険を冒して越える必要がなくなり、ハンガリー経由で安全に出国できるようになったのです。それは東ドイツ政府にとって、ベルリンの壁を厳重に監視する意味が失われたのと同じことでした。

更に10月頃から東ドイツ国内では自由化を求めるデモが「ライプツィヒ」を中心に多発。11月に入ると政府も統制できないほどの規模となった。「ピクニック」事件から約3ヶ月後の11月9日・夕、とうとう東ドイツは市民の自由な出国を認めベルリンの壁・東西ドイツ国境を開放すると発表。✽しかもこの措置は即刻実施されると発表されたので、東ドイツ市民は夜にかけて続々とベルリンの壁にあった検問所に詰めかけました。このニュースは即座に世界中に流されたので、西ベルリン側からも人々が押し寄せて検問所周辺はお祭り騒ぎになったようです。この一晩で数万人が西ベルリンに入ったと言われています。こうした経緯で『壁』は崩壊しました。




✽何故即刻実施となったのか・・・はこちらで。
http://sekaigyouten-saishin.blog.so-net.ne.jp/2013-08-13

当時の東ドイツ政府報道官『ギュンター・シャボウスキー』氏の勘違いで大きな平和が訪れた。いわば、「ベルリンの壁崩壊のキッカケを作った人物」です。

その後の東西ドイツ統一も書こうと思ったんですが疲れました(笑)
気になる方はWikipediaで調べて下さいっ!!!

「ベルリンの壁崩壊」は1989年。おチマは1984年生まれなので当時5歳。既に自分が生まれていた時に起こっていた問題であって、遠い昔の話ではないんだと改めて思った。崩壊から24年経った2013年に「ベルリンの壁」に触れました。



この車の名前は『Trabant-トラバント (愛称:Trabi-トラビ)』
東ドイツで生産していた小型乗用車です。




 

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