今日は移動日なのですが、出発が18:30と遅め。
なので引き続き観光、『Anne Frankhuis-アンネ・フランクの家』へ向かいます。
実は昨日の観光後に一旦見に行ったんですが、夕方にも関わらず行列。毎日行列だそうで、朝早く行ったほうが良いと書いてありました。ってな訳で?9時オープンにも関わらず、ゆっくり起きてしまったおチマさんは8:30過ぎにホステルをチェックアウトして荷物を保管してもらってから出発。到着したのは9時過ぎ(ホステルから徒歩10分くらいなので・・・)。既に行列はありました(笑)ですがおチマさん、時間はたっぷりあるので構わず並ぶことにしました。
朝から行列。4~50分並びました(笑)
『アンネの日記』というワードはとても有名ですが、その本を読んだことがナイのです。なので漠然としたイメージだけで臨みます。並んで待っている間に小冊子(日本語)をもらったので読んでいました。(以下、小冊子から抜粋。)
「アンネ・フランク・ハウス」は特別なミュージアム。第二次世界大戦中、アンネ・フランクが日記を書いていた隠れ家なのです。ここにはアンネの日記の文章や写真、フィルム、そして残されたものが起こった出来事を物語っています。
アンネは第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人迫害の数百万人に及ぶ被害者のひとりです。1933年にヒトラーが政権をとり、反ユダヤの体制を作り上げると、ユダヤ系であったフランク一家はオランダへ移住。その後1940年5月、ドイツ軍はオランダを占拠し、ここでも反ユダヤ政策が行われるようになります。フランク一家は、オットー・フランク(アンネの父)の会社のあるプリンセンフラハト263番地の建物に用意した隠れ家に潜みました。この建物には表の家と裏の家があり、裏の家の一番上の階に8人の住人が2年間もの間住んでいました。
隠れ家の住人たちは1日24時間家の中にいました。隠れ家のカーテンは近所の人に見つからないよう閉めたまま、日中は下の倉庫で働く作業員に気づかれないよう静かに座り、音を立てずにしていなければならない。隠れ家生活の圧迫感と発見されることの恐怖は大きなストレスになっていた。
1944年8月4日、密告を受けた秘密警察が隠れ家の強制捜査にやってきました。その後1945年3月、ベルゲン=ベルゼン強制収容所でチフスにかかり、姉・マルゴーの死後すぐにアンネは亡くなったそうです。
隠れ家の住人のうち、戦争を生き延びたのはオットーだけでした。彼はアンネの日記を出版し、1960年にこの隠れ家をミュージアムにしました。彼は余生を差別や偏見との闘いに捧げました。そして1980年に亡くなるまでアンネの日記を読んだ読者から届く何千通もの手紙に返事を書き続けたそうです。
ミュージアムには本棚でカムフラージュされたドア、ペンキで塗りつぶされた窓、壁に刻まれた成長の記録(身長)などがありました。(館内撮影禁止のため写真なし。)
ゆっくり見て回って、お昼。何を食べようかとプラプラしていたんですが、アムステルダムの街並みは本当に何処を見ても綺麗です。建物も可愛いデザインがあったりするので写真ばっかり撮ってました(笑)大量にありすぎて選べないので大変でした・・・・・。
で、ご飯は安いチャイニーズがあったので入ってみました。久々にカレーを食べました(笑)
まだまだ時間は余ってるんですが、もう他に見たいと思うものもなかったのでホステルに戻ってケータイいじいじしてたら、アジアン好きのロシア人スタッフ・デニス(23歳・学生)が話しかけてきて、レセプションのPCで色んな動画(笑える系)を見せてくれました。日本のもっ!!!2人でめっちゃ爆笑しながら見てた(笑)いきなりマジック披露とかされたり、楽しませてくれました。 Dank u.
トランプの表記は、Jack=B,Qeen=V,King=H
おちゃめなロシアン・ボーイでした(笑)
さて、ドイツに向かいますっ!!!!
デニスは覚えたての日本語「サミシイデス」を連呼してくれました(笑)
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